
こんにちは、atteyaaのマツイです。
若者を応援する私たちですが、
今日はあえて「とはいえ、大丈夫か?」という考えを
いつもながらに無頼派かつ哲学的に語ってみたいと思います。
ギラギラ
最近、若い世代を見ていて「ギラギラしているなぁ」と思うことがある。
目標や夢、成功への渇望があからさまで、
迷いなく行動に移す姿勢は実に眩しい。
ときに直線的で不器用ですらあるが、
その真っ直ぐさが逆に大人には羨ましく、微笑ましく映る。
自分もかつてはあの光を持っていたと重ね合わせるからかもしれない。
若さとは、欲望に忠実であることに恥じない無垢さでもある。
だが一方で、そのギラギラだけでは足りないのではないか?
そう心の奥でつぶやく私がいる。
猪突猛進する若者を見て、
なぜか「その先に壁があるぞ」と伝えたくなる。

では、その気持ちはどこから来るのか。
私は、いや大人は経験から学んでしまったのだ。
自己主張や自我の純粋さは称賛に値するが、
それだけでは成就に届かないことを。
感謝
思い返すと、若くして大きな成果を掴んだ人たちには、
ある共通点があるように思う。
それは「感謝」だ。
ただ能力があったからではない。
周囲の支えを自覚し、
そのことを態度に表すことができたからこそ、
その人は応援され続けた。
ギラギラの裏に
「誰かのおかげ」という透明な謙虚さを忍ばせていた人だけが、
早くに自我を実現する道を歩んだように思う。
哲学的に言えば、ここには逆説がある。
若さとは本来、自我の主張にこそ輝きがある。
しかしその自我を早くに実らせるのは、
自己の外にある「他者への感謝」なのだ。
つまり、自我の純粋な推進力を信じながら、
同時にその自我が他者によって支えられていることを理解できる。
この二重の視点を持てる若者こそ、ただ者ではない。
では「感謝」とは何か。
単なる礼儀ではない。
それは、自分の存在が他者の網の目のなかに位置づけられていることの実感である。
哲学者マルティン・ブーバーは「人間は『我と汝』の関係において存在する」と語った。
つまり人は孤立した「我」ではなく、つねに誰かとの関係において自己を形づくる。
感謝とは、その事実を感覚的に理解することに他ならない。
成熟
だからこそ、若者に「もっと感謝を持ちなさい」と説教じみて言うのは逆効果だ。
感謝は強制されるべき道徳ではなく、
他者との関係に心を開いたとき自然に芽生えるものだからだ。
むしろ大人にできるのは、彼らが感謝を自ら発見できるような環境をつくることだろう。
支えられていることを自覚する瞬間、ギラギラはただの独りよがりではなく、他者と響き合う光へと変わる。
「歳を取れば自然と感謝を知る」と言われる。
それは確かに一理ある。
人生の重さを経ることで、人は自分一人では生きられないと気づく。
だが、若いうちにそれを体現できる人間がいるとすれば、
その人は世代を超えて応援される存在になる。
感謝を言葉や態度で表す若者に対して、人は誇らしさすら覚えるのだ。
なぜなら彼らは、未来の成熟を先取りしているからである。
もちろん「急いで歳を取れ」と言うつもりはない。
若者には若者の無垢なギラギラが必要だ。
それを失えば、青春の意味は半減してしまう。
だがその光に、ほんの少しの感謝の影を差し込むことで、
輝きはむしろ深みを帯びる。
感謝は光を弱めるのではなく、光に輪郭を与えるのだ。
自分とは
哲学はいつも「自分とは何か」という問いに行き着く。
若さのギラギラとは、自分を強く打ち出すエネルギーである。
だが「自分は誰かのおかげで在る」という気づきは、
その問いにもう一つの答えを与える。
自分とは「他者に支えられて立ち上がる存在」でもあるのだ。
若者よ、ギラギラせよ。
ただし、その輝きの背後にある無数の支えに目を凝らせ。
感謝を知ることは、
自我を失うことではなく、
自我をより大きな世界に接続することなのだから。
読んでくれてありがとうございます。
旅って何だろう?
キャリアって何だろう?
人生って何だろう?
そんな疑問を感じたらぜひatteyaaを覗いてみてください。
