
こんにちは、atteyaaのマツイです。
若者たちよ、本を読もうぜ!
今日はそんなことをいつもどおり無頼派に書いてみました。
本を読み、街へ出よう。
本を読まなくなった。
この国の変化を一言で言うなら、それに尽きるのかもしれない。
失われた三十年。
経済は冷え、給与は上がらず、
それでも企業は利益を積み上げ、株価は上がり、
ニュースはそれを景気回復と呼ぶ。
だが、それは誰の景気なのだ?
街の古本屋は消え、
書店の棚は減り、
人々は手の中のスマホで世界を覗き見る。
ページをめくる指は、今や画面をスワイプする指先へと変わった。
書を捨てよ、町へ出よう。
寺山修司がそう叫んだ時代には、
まだ「町(街)」というものが息づいていた。
人が集い、語り、誤解し、笑い、喧嘩する。
価値観や思想が言葉を媒介にし、和解する場所としての街。
しかしいま、街はどこにあるだろうか?
人は街よりもアルゴリズムに寄り添い、
地元よりもタイムラインを歩く。
情報は届くが、声は届かない。
読書とは、世界と和解するための手段だった。
文字の向こうにある他者を想像すること、
それが「読む」という行為の本質だった。
言葉は不完全で、どこまでも届かない。
それでも人はその不完全さを抱え、言葉を発してきた。
本を読むとは、そんな人間のもがきを受け止めることだ。
だが、いまの私たちはどうだろう。
SNSで流れる言葉は速すぎる。
「いいね」と「バズ」で価値を測り、
語るよりも、映えることを望む。
その先にあるのは、言葉の消費だ。
読まれない言葉、残らない言葉。
地方創生?
サスティナブル?
地域貢献?
学生たちの口からそんな言葉が軽やかに飛び出す。
だが、その言葉は本当に「自分の言葉」だろうか。
誰かが作った安全な言葉を、
きれいに並べ替えただけじゃないのか。
それで「社会を変える」なんて言えるのか?

街は変わらない。
変わってしまったのは、言葉を失った私たちの方だ。
街はいつも、誰かの言葉でできている。
叫び、嘆き、笑い、罵倒し、また笑う。
そうした人間の声の堆積こそが文化であり、郷土であり、社会なのだ。
だから、もう一度言いたい。
本を読み、街へ出よう。
言葉を読むことで、言葉に触れよう。
そして街に出て、人の言葉に耳を澄ませよう。
語られる言葉と語られない言葉。
目の前の声に気づこう。
スマホの画面ではなく、身近な街の声。
アルゴリズムの世界ではなく、誤解と偶然が満ちた現実の世界。
それが、失われた三十年を超えるための、最初の一歩になる。
そんなことを思うのは私だけでしょうか。
本を読み、街へ出よう。
読んでくれてありがとうございます。
旅って何だろう?
キャリアって何だろう?
人生って何だろう?
そんな疑問を感じたらぜひatteyaaを覗いてみてください。




