
こんにちは、atteyaaのマツイです。
今日は「真心」について語ってみます。
「真心」という言葉には、
どこか優しさや温かさといった印象がないだろうか?
でも、意味を正確に辿れば、
それは「偽りのない心」や「本当の心」を指す言葉である。
そう考えると、真心とは決して甘い言葉ではなく、
むしろ人間にとって厳しく、扱いづらい概念のひとつだと言えるかもしれない。
そもそも「偽りのない本当の自分の心」とは何なのだろうか。
私たちは日々、膨大な情報や他者の価値観に晒されながら生きている。
その影響を一切受けずに形成された「純粋な自分」など存在するのだろうか。
この問いに対して、「自分など最初から存在しない」と主張する哲学者や思想家も少なくない。
主体とは環境や言語、関係性の産物にすぎないという見方である。
一方で、そうした主張を理解しつつも、
「それでも考えているこの私、感じているこの私が確かにいる」と反論する立場もまた根強い。
たとえ影響を受けていようとも、感じ、悩み、選択している主体がいる以上、
「自分という存在」を完全に否定することはできない。
真心という言葉が、私たちに訴えかけるのは、そんな根本的なところでもある。
さらに厄介なのは、「心」がどこにあるのかすら明確でないことだ。
胸の奥にあるような気もすれば、頭の中にあるようにも思える。
あるいは身体のどこにも属さない、中空のような場所に漂っている感覚を覚える人もいるかもしれない。
場所すら定かでないものに対して「偽りがないかどうか」を問うこと自体、相当に難しい。
それでも私たちは直感的に知っている。
真心は大事である。
では、真心はどのようにして育まれるのだろうか。
絶対的な答えはないが、その一つの手がかりとして、
「今に集中する」という態度があるのではないかと思う。
「今に集中する」とは、単に目の前の作業に没頭することではない。
過去と未来を切り捨てて、刹那だけに生きることでもない。
むしろその逆で、過去も未来もすべてが「今」において経験されているという事実に、深く気づくことだ。

私たちはしばしば、過去を「もう終わったもの」、未来を「まだ来ていないもの」として扱う。
しかし実際には、過去の出来事は記憶や感情として今ここに存在し、
未来は予測や不安、期待として今の行動や判断に影響を与えている。
つまり、過去も未来も、常に「今」を通じてしか存在しない。
それにもかかわらず、人は過去に引きずられ、未来に振り回される。
終わったはずの出来事に心を縛られ、来ていないはずの出来事に一喜一憂する。
ここに、時間に関する一種のトリックがある。
過去と未来という言葉に惑わされ、「すべてが今である」という事実を見失ってしまうのだ。
今という一点をハブにして、過去と未来が繋がっていると考えてみよう。
すると、その結節点には、さまざまな感情や思考の塊が見えてくるはずだ。
後悔や誇り、不安や希望。
それらは必ずしも滑らかに接続されているわけではない。
無理に繋いできた結果、
ギザギザしていたり、
ざらついた感触を伴っていることも多い。
だが、その不格好さこそが、等身大の自分である。
良い・悪いという評価を一旦脇に置き、
今に集中しながら過去と未来を見渡したとき、
そこに現れるのが「偽りのない心」だと私は思う。
それは理想化された自分でも、
社会的に都合の良い自分でもない。
影響を受け、揺れ動きながらも、確かにここにいる私自身の姿である。
真心とは、最初から完成された何かではない。
今に立ち返り続けることで、少しずつ輪郭を帯びてくるものだ。
その営み自体が、真心を育むということなのだろう。
難しく聞こえるかもしれない。
しかし、私たちは常に自分の真心に触れている。
今を生きている限り、誰もが。
過去と未来のタイムトラベル、
その結節点としての今、
その瞬間を大事にできれば真心は見える。
読んでくれてありがとうございます。
旅って何だろう?
キャリアって何だろう?
人生って何だろう?
そんな疑問を感じたらぜひatteyaaを覗いてみてください。




